【コラム】「社交」か「競技」かを巡る議論

ある社交ダンスブログの投稿が「競技ダンス」界隈でよく話題になります。

誰シャコくんさんという方で、「アンチ競技派、ソーシャル派」と自己紹介されている方です。

(「さん」をつけると「さかなくんさん」みたいになってしまいますね・・・以下、敬意を込めて誰シャコさんと表記します)

私含め、競技寄りの世界に身を置いてきた人にとっては新鮮な意見も多いのではないでしょうか。

誰シャコさんのブログを読んでいく中で、めちゃくちゃ反省した自身の行動や、「競技」と「社交」に関する願望についてつらつらと語らせてください。

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「社交」か「競技」か

誰シャコさんの主張を簡単にまとめると、主張の軸は「社交vs競技」の二項対立において「社交」がbetterであるという意見。

そこから派生して、以下のように様々な主張をされています。

  • 「資格や級(=競技的な性質のもの)の絶対視に対する警鐘」
  • 「見た目の綺麗さ(=競技的な性質のもの)の絶対視に対する警鐘」、また「踊りやすさ(社交的な性質のもの)が評価軸になるべきだ」という主張
  • 「競技は台本通りでコミュニケーションがない」という主張

主張の軸が一切ブレなくて感心してしまいます・・・!

競技ダンサーとしての私の意見

「社交も競技も優劣なんかない!手を取り合っていくべきだ!」

もし私が「ポリティカリーコレクト」(公正・公平・中立な発言のこと)な発言をしようとすればこのようになるでしょう。

このように思う気持ちには偽りはありません。が、、、

競技視点の勝手な評価軸

誰シャコさんのブログを読んでハッと気づいたのが、「競技視点の勝手な評価軸」で「社交ダンスを楽しむ人」を身勝手に評価してしまったことがあるかもしれないということ。

例えばこんな感じ。

「社交ダンス?楽しそうでいいんじゃない?(でも競技ダンサーの方がかっこいいし上手いけど!)」

競技ダンサーが言う「かっこいい」とか「上手い」は社交ダンサーを評価する評価軸としてきっと適切ではないのです。

それは例えば「日舞の演者は膝が曲がってしまっているから、ラテンダンサーの方が優れている」というのと同じくらい馬鹿げたことかもしれません。

無意識は罪

この「勝手な評価軸」を用いた「無意識の見下し」が、「社交」と「競技」の溝を深めてしまっているのかもしれないな、と感じました。

無意識でイノセントな見下し意識というのは正直めちゃくちゃタチが悪い。自分の中のこの無意識にもっと目を向けていかないといけないな、と猛省しました。

「社交」と「競技」の関係性

社交と競技の関係は「部屋着」と「スーツ」の関係に似ていると思います。

どちらも洋服ですが、部屋着は家でリラックスするために作られたもの、スーツは仕事のための戦闘服です。

前者は「着心地」、後者は「見た目」重視ではありますが、「かわいい部屋着」や「着心地の良いスーツ」もアリだし非常に重宝される。

一方で、部屋着とスーツはそれぞれの特徴がきっちり規定されており、お互いの役割を侵害しあうことはあまりありません。

部屋着で会社に行くことは無いし、スーツでくつろぐのもなんとなくキモチワルイわけです。

洋服の例えを出した真意

さて、私が一番主張したいのが、洋服を着るのは人間であり、自由に着脱できるということ。部屋着が落ち着く、という人でもスーツを着ることはできますし、スーツが似合う人も家では部屋着です。

「社交ダンサー」と「競技ダンサー」の二項対立の図式を作り上げていがみあうのではなく、洋服を自由に脱ぎ着するようにTPOに合わせて楽しく踊り分けられればいいなと思うのです。

従って、私たちが気をつけなければならないのはまずきちんとTPOに合わせた服を着ること。スーツでパジャマパーティに行っても楽しめませんし、部屋着の会社員は重要な仕事を任されません。

そして、部屋着に対してスーツ的価値観で「だらしなさすぎアリエナイwww」とか、逆にスーツに対して「モコモコしてないなんてカワイソウ」とか言うのは無意味なのではないでしょうか。

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